2009.06.23

公開講座告知

 このたび東京学芸大学では、日本クリニクラウン協会事務局長兼アーティスティックディレクター塚原成幸氏を講師にお招きして、下記の通り公開講座を実施します。夏休み中の教員研修を想定した講座のため、平日日中という時間帯ではありますが、関心とお時間のある方はお誘い合わせの上ご来場ください。
 なお、参加には事前申し込みが必要です。お手数をおかけして恐縮ですが、詳細は下記の案内中に記載された電話またはURLにてご確認ください。また参加希望者が予定数に満たない場合は実施されませんのでご了承ください。
 多数の御来場をお待ち申し上げております。

●クリニクラウンに学ぶ子どもとのかかわり-すべての子どもに子ども時間を-
http://www.u-gakugei.ac.jp/10sougou/12seminar/s0812.html

8月19日(水)13:00~17:00 東京学芸大学(JR武蔵小金井または国分寺駅から徒歩20分)にて(講習料3000円)

講演 クリニクラウンの活動概要と子どもとの関わり方について-「子ども時間」「スーパー子ども」を中心に- 塚原成幸氏(日本クリニクラウン協会事務局長)
基調講演 遠いようで近い、教育と医療―なぜ教師はクリニクラウンから学びうるか― 山田雅彦(東京学芸大学准教授)

●受講申し込み方法とお知らせ
下記URLにて電話、ファックスまたはメールアドレスをご確認の上お申し込みください。
http://www.u-gakugei.ac.jp/10sougou/12seminar/s03.html

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2009.03.09

新作

 平成21年2月 「論文執筆支援ツールとしての「序章テンプレート」に関する事例研究」 『東京学芸大学紀要 総合教育科学系』第60集、111-122頁

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2009.02.17

必殺。そしてまたしても沖雅也

 往年の時代劇「必殺」シリーズのファンとして、できれば無視し続けていたかったのだが、自称「最新作」が放映中である。
 
 「こんなもの放送されたら、恥ずかしくて必殺ファンを名乗れなくなる」という手厳しい批評さえ少なくない。
 
 何も期待していないし、視聴する気もなかったのだが、雑誌『時代劇マガジン』掲載の、出演者のインタビューを読んで、俄然興味がわいてきた。
 
 昔から番組のファンだったというこの青年は、自分に与えられた役がどういうものかよくわかっている。針で相手を刺し殺す、食い道楽の男。番組最初の登場人物、池波正太郎原作の藤枝梅安その人と同じ設定である。その後も、「刺殺」という手口は様々な登場人物によって使われてきた。かつては斬新だった「刺殺」「暗殺」という殺陣も、番組スタッフの尽力によって様々なパターンが確立している。何をやっても、昔の誰かの真似になってしまう。
 
 真似るまいとの模索が、時にコミカルな、時に大仰な演技になってしまう。自分が憧れてきたものの重さに押しつぶされかねない、痛々しい奮闘ぶりである。本人に罪はない。初期の番組が持っていた「まだそんな手があったか」という驚きの設定や演出を目指さず、よりによって「針を使う食通」という元祖の設定をリユースしたスタッフの怠慢である。
 
 それにしても驚いたのは、彼がスタッフからかけられたという言葉。曰く「こんなに身が軽い男は沖雅也以来だ」。沖雅也が「身が軽い」殺陣を演じていたというから「必殺仕置人(1973年)」のことか。そんな昔のスタッフがまだ現役であることに驚く。そして、俳優として大成せぬまま夭逝した沖雅也が、こんなふうに語り継がれていることに驚く。
 
 照明(というよりも、逆光と闇)による演出に定評があったかつての必殺シリーズ。当初は、大型のライトをたくさんそろえられない台所事情ゆえの苦肉の策だったらしいが、屋根から飛び降りて身構えた俳優の、目だけを切り取るように帯状の照明を当てる、といったことが普通に行われていた。どうやっているのだろうと思っていたら、当時の俳優が意外な種明かしをしていた。俳優の目元に照明を当てるのではなく、照明が当たっているところに目を持ってくるように俳優が動いていたのだという。激しい動きの中でこれをやるのはたいへん難しく、毎回毎回たくさんのNGを出した末に、降板を申し出たことさえあるという。
 
 「沖雅也以来」という言葉を目にしてはたと気づいた。おそらく、沖雅也にはそれができたのだ。もちろん、当時の照明はそれほど凝ったものではなかったが、スタッフの「こんな映像にしたいからこう動いてくれ」という難題に、沖はすぐれた運動能力で淡々と応えていたのだろう。彼の運動能力がなかったら、必殺の照明はもっと素朴なものにとどまったかもしれない。必殺の照明スタッフが、後に『鬼平犯科帳』の照明を担当したことも考えれば、彼は自分の死後四半世紀、時代劇に影響を与え続けていることになる。
 
 もって瞑すべし、なのか。生きて見届けてほしかった、とも思うのだが。

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 安物の塗り箸を毎日自動食器洗浄機(食洗機)で洗っていたら、塗りがバリバリにはがれてしまった。
 
 買い換えに入った店がちょっと価格帯の高い店で、「食洗機OK」の箸を見繕っていたら、四桁の箸を買うことになってしまった。箸一膳に1000円。ちょっとした散財だ。
 
 製法の名前は忘れたが、木材を高圧で圧縮して作ってあるらしい。細身で軽く、わずかにしなるが基本的に固い。精密なピンセットのようだ。米粒一粒一粒を難なくつまめるし、つまんだ米粒の大きさや弾力が掌に伝わってくる。文字通り「手にとるよう」だ。
 
 この箸を使うようになってから、食事の時の所作が美しくなったような気がする。育児の真っ最中とて、ゆっくり食事をすることもままならないのだが、茶碗に口をつけてかき込むようなことはしなくなった。心なしか食事中の背筋も伸びているようである。
 
 道具にお作法を教えてもらえるなら、1000円の箸も安いものかもしれない。
 


 
 そんなある日、子どもが自分の身長より高い卓上のお惣菜(フライ)を手探りでわしづかみにした。「こら」と言うが早いか、件の箸で子どもがつかんだフライを一突き、そのまま箸で取り上げてしまった。獲物を狙う猛禽か、仕掛人藤枝梅安のようであった。小説『宮本武蔵』に登場する、箸で生きた蝿をつまんだという剣豪、塚原朴伝さえ思い出した。

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2009.02.11

小三治

 かつて、落研に所属していたことがある。大学ではなく、高校のだ。受験の時に縁起が悪いからと、「おちけん」ではなく「らっけん」と呼ぶ、というしきたりが、当時はうっすらと残っていた。今はすっかり「おちけん」になっているようだ。性格を明るくしようと落語を始めたのだが、性格に裏表ができただけで終わった。落語のようにしか話せない、という副作用もあって、今でも会議などではボソボソとしかしゃべれない。
 
 閑話休題。
 
 当時、仲間内で人気の噺家といえば、圧倒的に五代目古今亭志ん生と、その息子志ん朝だったが、私は柳家小三治だった。「気楽に聞いてください。やってるこっちが気楽にやってるんですから」という、いかにも気楽そうな呼吸で発せられる挨拶が、今でも妙に耳に残っている。それは、たぶんそれが「大嘘」だったからだ。
 
 取材嫌いな小三治師匠が、近頃時々自分のことを公の場で語るようになってきた。そこで語られているのは、「気楽」とはほど遠い悪戦苦闘、試行錯誤の過程だ。
 
 教育者の家庭に生まれ育ち、技巧の限りを尽くして客を笑わせられるようになったにもかかわらず、師匠五代目柳家小さんから「おめえの噺はおもしろくねえなあ」と一蹴されたという。身につけた技巧を全部削ぎ落として、「笑わせるのではない、笑ってしまうのだ」という噺の境地を目指し目指して今日に至る。
 
 私が見たり聞いたりしていた頃の小三治は、今の私と同年配。技巧を削ぎ落とそうと悪戦苦闘していた時期である。「天才」や「サラブレッド」を横目に見ながら、死にものぐるいでトボトボ歩いた人生だったことだろう。
 
 まだ刊行されていないが、ある仕事でこんなことを書いた。今はなきとある芸能人のファンサイトを念頭においての記述だったが、気がつけば自分のことを語っているようでもある。

 「時には生徒の側が教師を相談相手に選び、教師の片言隻句から勝手に「ヒント」や「勇気」をつかみとってゆくことがおこり得る。いくつかの事例をふまえて言うならば、そのような出来事はしばしば、教師自身が学校文化と非学校的なものとの狭間で葛藤している時に生じる。演劇と学校が並び立たない現実を直視し、非学校的な演劇を切り捨てることも学校を演劇に準じて変革することも断念し、引き裂かれつつ二つのキャラクターを演じ分けようと努める教師を、同じ葛藤を抱えた生徒はめざとく見つけ、「先達」や「同志」として選ぶのであろう。それは、芸能人の熱狂的なファンが、時としてその芸能人に自分と似通った苦悩を見出していることにも似ている。」
 
 そんな小三治のドキュメンタリー映画が作られた。題して「小三治」。気がつけば、最後に残った「昭和の名人」といっても過言ではない。この道を死にものぐるいでトボトボ歩いていれば、いつかあんなところにまで到達できるのだろうか。

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2008.12.25

再会

 高校時代の体操服を着て大学に来る学生は少なくない。授業終了時、ひときわ丁寧に授業の感想を書いて、最後に提出に来たその学生も、高校の校名入りジャージを着ていた。
 
 見覚えのある学校名である。数年前、進路指導の一環として招かれ、出張講義で教育学のさわりを講じたことのある高校の一つである。
 
 その時のことを覚えているかと学生に尋ねてみた。大学教員の出張講義を受けたかどうかさえあいまいな様子。ひょっとしたら、あの講義の対象学年ではなかったのかもしれない。
 
 しかしそのうちに、鮮明に思い出したようである。
 
 「この授業の最初の回で聞いた話、高校の時にも聞きました」
 「その話したの、私なんですよ」
 「え? そうなんですか」
 「そうなんですよ。お久しぶりです」
 「あ、お、お久しぶりです」

 聞けば、その時の出張講義をきっかけに本学に興味を持ち、今年入学に至ったのだという。
 
 広報だの営業だのの効果については、誰か他の人が論じてくれるだろう。それよりも何よりも、ただ一度、1時間弱の講義が、高校1年生の進路にこれほど大きく影響を及ぼすことがある、ということの方に驚く。自分が気づかぬうちに誰かに与えてしまっている影響の大きさに空恐ろしくさえなる。
 
 人前で話すことを職業にしてしまったものの宿命である。どこで話すときも、心して話さなければならないとあらためて思う。

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2008.11.26

後輩

 母校に出張講義、という珍しい経験をしてきた。もっとも、集まった大学教員のうち、ほかに少なくともお二方、同様の立場の方がいらっしゃった模様。「珍しい」というのはこちらの気負い過ぎか。
 
 「自由な校風で」「びっくりされるかと思いますが」「掃除も行き届いていないかもしれませんが」「そういう学校なんで」と、出張講義でまず聞くことのない校長や担当者のお話が続く。「びっくりされるかもしれない」ような高校の場合、「外部の方に叱っていただく方が生徒が聞き入れますので、ご面倒でも遠慮なく叱ってください」などと煽ってくることさえある。
 
 ナントカ重点校になっても、基本的には変わらない学校である。
 
 会場はそれまでふだんの授業が行われていた通常教室。そこかしこにむき出しの私物や段ボールが置きっぱなしになっている。相変わらずである。もっとも、今日は床の綿ゴミ、紙ゴミが少ない。彼らにしてはがんばって掃除したのか、今はこういう学校なのか。
 
 「不審者を判別しやすくするために、指定の上履きを履け」とそこいら中にはり紙がしてある。制服のない学校には思いがけない苦労があるものだ。というよりも、不審者という現代的なアイテムを「上履きを履け」という古典的なドレスコードに絡めているところにこの問題の根深さを感じる。相変わらずである。
 
 講師(私)が黒板の前に立っていてもなお、缶やらペットボトルやらのお茶を飲んでいる生徒が数人。出張講義は二桁経験しているが、初めて見る。中には弁当箱を広げている者もいる。もちろん初めて見る。強者である。
 
 ところが、一風変わった、やたら長時間続くチャイムが鳴り終わると、机の上から弁当箱も飲み物もきれいに片づけられた。もちろん、講義中に飲食する生徒は皆無。教師に指示されていたのなら、休み時間にも飲食はしないはずである。明らかに、自分の意思で休み時間と授業中を切り替えているのだ。後輩たち、思った以上に優秀である。もっとも、私はそっちのお行儀のよい生徒だったが。
 
 これだけできる生徒たちなのだから、「掃除も行き届いていないかも」などと学外者に言い訳している暇に、「お客が来るのだからきれいにしよう」と生徒を煽ればよいのだ。講師を案内する係も、生徒に任せてみればいい。学外者の接待を任されて緊張する数分間、運がよければ個人的に学外者と会話ができる数分間が、生徒の人生にとってどれほど貴重な経験となるか。実際、そうやってくれる高校はたくさんある。失礼のないように最低限のマナーについて指示しておくこと、案内係にそそうがあったら本人なり教員なりに指摘してほしいと講師に伝え、実際にそそうがあったら生徒をきちんと指導すること。必要なのはそれだけである。
 
 「自由な校風」を満喫しているのが誰なのか、あらためて実感した一日であった。 
 

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2008.10.30

母校

 大学教員の業務の一つに、高校への出張講義というものがある。大学の広報活動と、研究成果の社会還元を兼ねて、進路指導の一環として高校に招かれ、大学1年生レベルの講義を行う。
 
 子供の急な発熱などに備えて、近頃はめっきり出かける機会も減ったが、以前は年に10校弱の高校に出かけていた。都内はもちろんのこと、遠くは群馬県まで。おかげさまでおおむね好評で、中には翌年から、山田を指名して出張講義を依頼してくれる学校もある。
 
 そして来月、母校にて出張講義を行うこととなった。
 
 私が在学していた1980年代初頭には、学園紛争の1970年代に“生徒会が主体的に”受験体制の一掃を達成したのが自慢の高校であった。「達成」したのはいいが、要するに受験に関する指導も情報提供も満足にしない、というだけのこと。進学校である以上生徒はほぼ全員が大学進学を希望しており、ほぼ全員が3年生になると通学定期をもって都内の予備校に通っていた。
 
 わけあって予備校に通うのがはばかられ、浪人も私大進学も困難な状況だった私は、旺文社の大学受験ラジオ講座一つを頼りに入学試験を突破した。
   
 時代は変わったなあ、と思う。

 きっと今もいる、貧乏で優秀な生徒たちのために、一生懸命話してこようと思う。

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2008.09.19

終焉

 郷里のカレー屋が店をたたんだ、という記事から1年半、店の閉店自体からは2年半。体調を崩されていた店主が鬼籍に入られた。
 
 元常連の一人は、「自分の中の何かが本当に終わってしまった気がする」とコメントしている。本気かどうかはわからない。
 
 極端に辛いカレーが名物で、高校生ならいざしらず、いくつになってもその辛いカレーを目当てに通い詰める常連たちは、私には大人げなく見えた。「激辛」とか「大食」って、一部のプロをのぞけば思春期のものだろう、やっぱり。
 
 高校時代、何かというとそこでカレーを食べる一団があって、私はそのグループの隅っこにいた。放課後一緒に過ごしていても、ほとんどの場合カレー屋には寄らずに帰った。一食600円が大枚だった上に、共働きだった母が留守がちであることを埋め合わせるかのように食事だけは几帳面に作っていたので、外食して帰ることがはばかられたせいでもある。
 そんなわけで、高校を卒業してからもしばらくは通っていたが、店主は私の顔を覚えなかった。フロア担当の店主の細君が、うっすら覚えていて曖昧に会釈を返してくれる程度だった。「改築のため一時休業」の情報が常連からもたらされたが、わざわざ出かけることはしなかった。
 
 そんなことを久しぶりに思い出した。育児の真っ最中であるせいか、郷里をめぐっては(実家をのぞけば)1990年頃に取り壊されてしまった生家のことばかりが気になっていた昨今である。大人になってから見たら驚くほど狭い路地の奥にあった、驚くほど狭い家。ごくごく稀にだが、その家にまだ住んでいる夢を見ることがある。

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2008.08.01

勝手に宣伝 加納の小一時間2

 公開講座に多数の申し込み、ありがとうございました。おかげさまで満席。許容数を越えて申し込まれたみなさんにはキャンセル待ちをお願いしております。定員をはるかに超えて受講を受け付けましたので、「体験的活動」はほぼカットとなります。ご了承ください。
 
 少しでも多くの方に講座の雰囲気を味わっていただければと、今年の外部講師加納真実氏の個人公演のご案内です。

時間! 時間! 加納の小一時間!! 2!!!
 
 公開講座6000円のところ、当日券でも半額の3000円。しかも山田の講釈がついてこない。お得です。
 
 「講釈がついていてお得だった」と言われるよう、講座の方も務めさせていただきます。よろしくお願い致します。

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